幼少期1982年-1989年
福島県出身の父と、奄美大島出身の母の元、3人兄妹の長男として東京都で育つ。
生まれたのは、母の実家の鹿児島県奄美大島(兄妹全員)
育ったのは、東京。母も仕事をしていたため、保育園に入園する。
二人の妹の面倒をよく見た。「長男として、面倒見がよい子だった」(母親談)
保育園では人が集まるガキ大将だった。よく覚えているのはケイドロをみんなでして、最後にみんなを逃がしたこと。 今思い返すとこの時が人生で唯一のモテ期だった。
小学校1989年-1995年
地元の小学校へ入学する。
そろばんを習っていた(1級)ので、算数は得意だった。
6年生時のあゆみ(通知表)には「委員長を二期務めていたこともあり、 みんなに大声で指示を出したり、地味な仕事もコツコツとやり遂げたり、 リーダー性も芽生えてきています」とある。
学年が上がるにつれて、運動が出来るようになった。
小学校高学年では、クラスを代表してリレーの選手に選ばれたのが嬉しかった。 4年生から始めたサッカーは中学校卒業まで続け、今でもフットサルなどに参加している。
夏休みは奄美大島、冬休みは福島で、まるまる過ごしていた。
夏休み40日間を奄美大島で過ごして東京に戻ると、方言やイントネーションがうつっていた。
中学校1995年-1998年
中学時代は3年間学級委員長を務めた。
3年時の担当から「もっと積極的に何事にもリーダーシップを発揮してもらいたいものです。 学級だけではなく、学年、学校のリーダーになるつもりで取り組んでください」と期待されている。
今も、小学校・中学校の繋がりが強く、友人と集まることは多い。最近は、友人たちは夫婦子連れで、 「保育所に入れなかった」など子育ての悩みを聞くことも多くなった。実際に仕事を辞めた友人もいる。
高校1998年-2001年
東京都立戸山高等学校へ入学する。
制服もない自由な校風で、楽しく過ごすことができた。 自由な反面、勉強は自己責任だ(あまり大きな声では言えないが、2年浪人をしている)。
バスケットボール部に入部する。
『黒子のバスケ』の藤巻忠利氏とは同級生で、一緒にバスケ部に体験入部したのを覚えている。 青春を謳歌するため、親友たちと音楽鑑賞同好会(趣味部)を立ち上げる。 60年代~90年代の米国や英国のロックを主に聴いていた。
大学2003年-2007年
京都大学 経済学部へ入学する。
応用ミクロ経済学の宇高 淳郎助教授(当時)のもと、 ゲーム理論や戦略の経済学を学ぶ。授業だけでなく、 大学の寮では学部や学年、国籍の垣根を超えた多様な人と交流をする。
政治学、雑草、東洋医学の研究をしている人や、その後医者や弁護士に なった人などと、それぞれの専門分野を背景として、多くの議論を毎晩のように したことは現在の財産になっている。中国人留学生から教えてもらった、 餃子の皮の作り方を元に今も餃子パーティをしている。
普段の生活からメガネをかけるようになったのは、大学に入ってから。
就職活動の際に、多くの女性が自分のやりたいことではなく、 結婚や子供を産んでも働ける環境を重視していることに、とても驚いた。
京都大学の卒業式はコスプレで有名だが、私はコスプレはせずに普通に 祖母の織った大島紬を着て、妹の子供を抱っこして参加した。
社会人2007年-現在
日本マイクロソフト株式会社へ新卒で入社する。
大手法人の営業部で、流通・サービス部門の法人営業として、 主に総合商社などを担当させていただいた。
ITを使って、お客様の「働き方」を改革するプロジェクトに携わらせていただいた。
- 丸紅株式会社
- カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社
- SCSK株式会社
- 伊藤忠テクノソリューションズ株式会社